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2007年11月

4月の猫のこゆびさん—のみのみ

 こゆびは2007年の4月の末、うちに来た。

 吉田寮から、紙袋に入れ拉致同然に連れ帰った。道中非常に悲痛な声を出すので辛かった。百万遍では車の音に怯え袋から這い出そうとした。押さえつけるのが辛かった。

Dsc03159_3 寮できょうだいや母猫ツンに甘えているのを見ていたからな。軒下の段ボール箱に住んで、ちょうど季節はざわざわと緑が増え出す頃。まだ肌寒かったけれど、中庭の緑は、黒く押し黙った寮棟を覆い隠そうとするかのように光を帯びて、夜目に美しかった。

 家に連れてこられたばかりのこゆびは、のみとシラミがついていて、初めは一緒に寝らんなかったんだよね。階段も登れなかったから、二階の寝室には上げないことにして、人間の方は、階を行き来する度服を変えたりしていた。階段下の壁際で、汚染服から非汚染服にもぞもぞと着替える人の姿が頻繁に目撃されるという滑稽な一時期だったな。

 そんでまた、夜、まだ赤ちゃんみたいなこゆびをひとりぼっちにして寝るのが本当に辛かったなあ。時々鳴き声で眠れなくて、下の階のソファで一緒に眠ったしたな。あの頃そういうことをしたのは私だけなのに、今ではすっかり東くんが好きらしく、東くんの膝や胸の上で眠りたがるのが小憎らしいです。

 獣医さんで虫取りの薬をつけてもらうとシラミは全滅して復活もなかったんだけど、のみには苦労したな。3〜4週間もするとまた増えて来てしまって。

 そう、のみのうんち!僕は20年生きて初めて見たけど、のみのうんちって、うずうずしてんの!のみのうずうずうんち!はじめ、こゆびの寝ているところに小さくてつやのあるつぶつぶしたものが落ちているんで、こゆびの血が乾いたものかと思ってたんだけれど、妙に定型なのが不思議に思ってたら、物の本に、「猫の寝床に黒っぽい粒が落ちていたらそれはのみの糞である」ってあるんだもの、あのうずうず型にも納得がゆきましたよ。うーん、のみのうずうずうんち嫌い!

 この頃少しのみのことを調べたりしたけれど、江戸時代には猫ののみを取るお小遣い稼ぎみたいな仕事があったんだってね。猫ののみを取りましょう、と呼ばわりつつ往来を歩いて、頼まれるとまずは猫を洗って、それを狼の毛皮にくるんで抱いていると、濡れたところを嫌ってのみが毛皮の方へ移ってゆくんだそうです。最後に道へ出て、毛皮をぱぱっと払ってやればのみ取り完了。猫一匹三文といったかな。狼の毛皮にくるまれて抱かれている猫っていうのが可愛いと思うんだよ。

 で、こゆびののみ。毎朝のみ取り櫛で梳くと、本当に、イラストで見る通りの、薄茶に透き通ったのやら赤黒く成長したのやら、毎日数十匹は出てくるという有様で、またこれが、こゆびが自分で舐められない顎の下にくっついてさ、小さなこゆびの血を吸っているんだから、僕は本当にのみを憎みましたよ。目の敵という奴です。Dsc03167 ぷちぷちした奴ら死ね!と思って暮らしていました。と書くとなんだか殺伐とした感じねぇ。

 東くんがずいぶんのみ被害にあって、あちこち赤くしていたな。僕も刺されてたみたいなんですけどね、あまり腫れたりはしなかった。

 その後も何度か、月1くらいで薬を使っていたけど、つい最近はもう使わなくてものみが出てくることもなくなって、一緒の布団で丸くなって寒さをしのぐ毎日です。うん、夜はね、東くん寝返りが多いから、僕の布団の方がよいみたいです。ふわふわ。

Dsc03171       (写真は6月頃のもの。生後2ヶ月だね。)

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孤独のセル

 大阪でとーじんの芝居を観てきた。

 本日の中野劇団のお芝居「真実は笑わない」(於、in→dependent theatre 1st)は、アトリエ劇研での「不埒」以来二回目。

 先頃からすっかり寝坊の僕だけれど今日は普段のお休みよりは早く起きられて、お日柄もよろしく、いつもは私の懐で眠り、私が起き出そうとするとするりと抜け出て、私が朝食の用意をするのを待ち伏せているこゆびは、今朝は珍しく東くんの足元で、逆さ向きに頭だけ出して寝ていた。まずこゆびのご飯を用意してから、自分のトーストを焼く。

 僕はトーストには何か甘い味のするものを塗らずには気が済まなくて、このところジャムも何も切らしていたのが味気なかったけれど、本日は昨日買ってきたピーナツクリームがあり、嬉しい。さっくりと焼けたトーストにホイップ状のクリームを延ばしてゆくと、熱で艶やかに溶け香りが広がってゆく。安い品でだって僕は毎日幸せですとも。

 お京阪、JRを乗り継いで、難波から徒歩にて日本橋へ。京都では見かけない北欧パンの総菜パンにかじりつきつつ、行儀悪く進む。東くんがとーじんの芝居にかこつけてパソコンを買うというので、べ氏に教示されたルートを辿りPCショップの軒先を物色。家具や雑貨の店も紛れていて僕はわくわくしましたよ。

 開演時間に近づき辿り着いたin→dependent theatreはコスプレショップと同じビルに入っていたものの、堺筋を一本逸れただけで急に住宅街へと趣を変えた通りに、こころもち寂しげに開場中。受付嬢は語尾の「ます」を無闇に高く長く延ばして発音。暖房がきき微かに息苦しい室内。

 開演。

 終演。

 そうだなぁ、演技では香芝葉子役の真野絵里さんが抑制の利いてよく練られた演技だと思いました。脚本は台詞や場面の拾い方が巧いなぁと思いました。でも、最後の「私はここにいます」という香芝菜穂子の台詞はどうなんだろうか。ずっと観ていて、人と人とが隔絶した状況の中で互いを見つけられないままに助けを求め合っている話には思わなかったんだけどな。いや、今改めてそう書くとそういう話だったのか、って思うけど、観てた時はもっと単純に「家族再生」の物語みたいだったからなぁ。「家族」にしちゃったから切り口が瑞々しくなかったのかな。

 孤独だ、ということは、きっと誰にも突き刺さる事実だと思う。僕達は、真空とともに小さなセルの球体に閉じ込められてしまったかのように、互いに触れ合うことも声を届けることも叶わない世界に生きている。それがよくある言説の通り現代に固有なことか、いつの時代もそうだったのかはわからないけど。だから、「私はここにいます」という台詞は、あまりにも陳腐で鼻白むけど、それだけ普遍的なことだとも言えるわけで、それはやっぱり多くの人の心に届く可能性を持ったつぶやきなんじゃないか。「家族」なんかじゃなくてさ。もっと一人一人の人間をばらばらに切り離してしまってもよかったんじゃないかと思います。

 さて、再び外界へ。パソコン探しの続き。ソフマップの店頭で初めて初音ミクのビジュアルを見たよ。こんな姿だったのか。世紀の歌姫。

 家に帰り着く頃にはすっかり日暮れて、早速荷解きしたパソコンの音が出ないとか駆動の振動が大きくて気になるとか唸っている東くんを横目に入れることすら無く、鶏手羽をゆで卵さんと一緒に煮込み食す。うまし。

 世界は決して交わらない。球体が接し合うのは常にただ1つの、面積を持たない点だ。僕達はその接点へとそっと額を重ね、頭骨から伝わる冷たい振動を介し密やかにつぶやきを交わす。

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神楽岡の光る夜道

 昨日は少し変わった天気で、途切れ目の多い雲がぼんやりと翳る空から時おり雨がぱらぱらと降って、ナカニシヤ出版では、校正の受け渡しに来た印刷屋さんが、狐の嫁入りなんて言っていた。家や庭木や道路には雨粒が落ちて、日差しがそれを光らせる。

 夜は前日巡った吉田山の、少し南東の方、友人の家へ、広島の実家から送られてきたという牡蠣をご馳走になりに行く。お土産の「丹波フルーティ」は栗鼠のラベルが寒い季節らしくて愛らしい。小雨が降っていたけれどものともせずに、軍用のオーバーを着込んでなんだかマレー熊みたいな東くんと東大路を下る。お邪魔した家は、吉田東通から服部とうふ店へと登ったところあるY氏・F氏のお宅。黒谷の山を回り込む坂道に面したエントランスにはちゃんと小さくて可愛いらしい感じの門があったよ。東くんは家のたたずまいの良さをしきりと羨ましがって、妬ましくてつばを吐きかけたいくらいだなどと口性ないことを言っていました。

 さて、広島の牡蠣ですが。うまかったよー。まず、とてもおおぶり。うっすらと半透明な貝柱をとりまくひもも、黒い縁取り鮮やかにひらひらと活きが良く、身は瑞々しい歯ごたえ。これを生で食べたり、ワインで蒸し焼きにして食べたり。レモン、大葉に大根おろし。ポン酢とそしてサウザンソース。平鍋のふたを取ったときの湯気がまた暖かげで心温まるものがありました。うふふ。

 牡蠣と言えば、子どもの頃はフライだったな。私の祖父は10年ほど前に潰すまで、生コンの会社を持っていて羽振りもよく、週末にはいつもホテルのレストラン(海辺だよー。当時住んでいたのは釧路だったからね。ベイエリアですよ。)で夕食を食べるなんてことしていたけれど、妹はほんの小さかったから、牡蠣のフライが出ても身の味が駄目で、母が衣のついた上から直感だけで半分かじって、妹には貝柱の側だけ食べさせる、なんてことをしていたのを思い出した。子どもがふざけてやるようなことだから可笑しいと思ったんだけど、この話をしても昨日一緒に牡蠣を食べていた人達にはあまり面白がってもらえなかったよ。

 22時になる頃、家路に。相変わらずの雨で、夜道は水面のように黒く、オレンジや白の街灯の光を滲ませる。途中、墓地の開けた空から望んだ北山は、山間から何かの強い白い光が上空へ射して、靄で煙ったような夜空に浮かび上がっていた。すごく昏い冷たい光景だったんだけど、妙に優しくて思わず声を上げてしまった。きれいだった。神楽岡通りを北へ抜け、疎水沿いの道に出る。横切る今出川通の残像。雨は好きだ。

 

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茂庵 いち

 今日の環境構成論(という授業を大学で受けているのです)は吉田山の散策会だった。午前中は日射しが暖かく、上々のお散歩日和。吉田神社の北の鳥居から教授や他の学生と出発する。

 吉田神社の社殿が成立したのは16世紀の末から17世紀初頭のことだそうで、一般の神道とは異なる吉田神社特有の教義に従っているのだとか。本殿の南側に位置する大元宮は八角形の平面で、全国でも吉田神社にしか見られない珍しい構造をしている。大元宮の東西には、「東諸社」「西諸社」として全国の神社が祀られていて、「八百万の神が一同に集まった」という様相(伊勢神宮の内宮、外宮まであるのが可笑しい。結構大胆なことするよね)。

 吉田神社が一番の賑わいを見せるのは2月の節分祭。私は去年、初めての節分祭を見物しに行くこともなく、横目に通り過ぎていたけれど、神社境内から山裾の鳥居を抜けて東大路まで、京都大学のキャンパスの間を通る東一条通にずらりと朱や紺、黄色の出店が並んで、とても華やかだったな。折しも薄曇りの空には、年に幾度降るわけでもない雪。祭の見物人の足元で、雪がアスファルトを黒く濡らして溶け残り、屋台の暖かな様子を際立たせていた。今年は人込みをいとわず出かけてみようかな。

 神社境内を抜け、さらに山を登った吉田山公園へ。子どもたちがたくさん遊んでいた。麓の吉田幼稚園の子らなのかしら。結構鬱蒼とした林の中に唐突にたくさんの子どもたちの声がするのはちょっと奇妙でした。この公園には京都大学の前進第三高等学校の閉校後、創立から90年の折に立てられた「紅萌ゆる」の歌碑がある。歌碑とかあまりきれいじゃないと思って好きじゃないけど。大学は団塊の世代が入学する頃に一度定員を大幅に増員したことがあるそうで、そのころはちょうどスプートニクの打ち上げに刺激されて日本で科学教育に力が入れられた時期でもあって、その頃の学生をスプートニク世代と言ったり、教官増員で採用されていた教授たちはスプートニク教授なんて呼ばれていたんだって。楽しいね。

 吉田山東側の斜面を歩く。近代に入ってから指定された天皇陵を覗く。無彩色で何となく陰気。まぁ、お墓だからね。後一条院陵のお隣は料理旅館吉田山荘。もと東伏見宮別邸として昭和7年に建てられたものが、戦後手放されて料理旅館になったものだそうで、昭和7(1932)年というと建築やデザインの分野で世界的に展開していたモダニズムが日本の都市文化にも波及していた時期だけれど、吉田山荘の建物も洋間と和室の両方を備え、当時流行のステンドグラスを随所にあしらった素敵な建物のようです。今日は敷地の外からちらりと見ただけなのだけれど。こういうところに来られる大人になりたい、な。

 一生懸命書いてるのだけれど(というか一生懸命書きすぎているせいで)なかなか茂庵に辿り着けません。疲れちゃったから「茂庵」の続きはまた明日。

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